講道館護身術は、柔道の創始者である嘉納治五郎師範の逝去後、昭和31年(1956年)に新たな柔道の「形」として制定されたものです。これは、現代の日常生活で想定される危害から身を守ることを直接の目的としています。
講道館護身術は、嘉納治五郎が直接制定した柔道の形ではありませんが、彼の理念である「精力善用」「自他共栄」に基づいています。嘉納師範は、柔道を単なる勝敗を競うスポーツではなく、社会で役立つ人間を育てるための教育手段と考えていました。護身術は、その理念を体現し、柔道の技を実生活で生かすための重要な体系として、嘉納師範の没後に講道館によって確立されました。
この形は、従来の柔道の形が持つ古武術的な要素に対し、現代の社会情勢に合わせて作られました。組む、絞める、当身(打つ・突く・蹴る)といった技に加え、短刀、杖、拳銃といった現代的な武器に対する防御法も含まれています。
特に、一度柔道の体系から削除された手首関節技(小手挫、小手返)が、天神真楊流柔術から再採用されている点が特徴的です。
「極の形」と似ていますが、対面、側面、背後など、様々な間合いや角度からの攻防を想定している点が大きな特徴です。相手に組まれた状態だけでなく、離れた位置からの攻防にも対応できるよう工夫されています。
武道における「身体の捌き(さばき)」とは、相手の攻撃を正面から受け止めず、自分の体勢を崩さずに有利な位置へと移動する技術のことです。これは、単に体を動かすことではなく、相手の力や動きを読んで、それをかわし、無力化するための重要な概念です。
講道館護身術では、この身体の捌きが極めて重視されます。相手との間合い(距離)や角度を適切にコントロールすることで、相手の攻撃をいなし、自分の技を効果的にかけることができます。特に、離れた位置からの攻撃や、不意の状況に対応するためには、この身体の捌きが基本中の基本となります。
手首関節技は、**嘉納治五郎師範**が柔道の技法を整理する過程で、一度正式な技法からは削除されました。これは、危険を伴うことや、当時重視されていた投げ技や固め技との整合性の問題からでした。
しかし、講道館護身術を制定するにあたり、より実用的な護身を追求する中で、天神真楊流柔術などを学んだ制定委員の**酒本房太郎先生**の尽力により、この技法が護身術の体系に再導入されました。これにより、現代の柔道においても、護身術として重要な技として位置づけられています。
講道館護身術の制定委員の一人である酒本房太郎先生は、柔道の高段位者であると同時に、古流柔術である天神真楊流柔術の免許皆伝者でした。柔道が誕生する際に嘉納治五郎が参考にした古流柔術の一つに天神真楊流があり、嘉納師範自身も免許を受けていました。
酒本先生は、護身術の制定において、柔道の体系から一時的に除外されていた手首の関節技を再評価し、その有効性を強く主張しました。彼の貢献により、護身術には小手返や小手挫といった天神真楊流に由来する手首関節技が取り入れられました。これは、講道館護身術が単なる柔道の応用ではなく、古流柔術の知恵を現代に生かした、より総合的な武道であることを示しています。
講道館護身術は、制定委員の中心的人物である富木謙治先生が、大東流合気柔術の技法を取り入れたことで知られています。富木先生は、大東流合気柔術を学んだ経験があり、制定の際に同流派の前田武先生に協力を依頼したとされています。
このため、講道館護身術には、柔道や合気道だけでなく、大東流合気柔術の技術も一部含まれていると考えられています。これは、様々な武術の優れた要素を取り入れ、より実用的に多角的な護身術を確立しようとした、制定委員会の試みを示すものです。
講道館護身術には、柔道だけでなく合気道の要素も含まれています。これは、制定委員会の中心人物である富木謙治先生が、合気道創始者である植芝盛平先生の門下生であり、合気道にも精通していたことによる影響です。
合気道の「相手の力を利用して制する」という思想や、間合いの取り方、体のさばき方などが、講道館護身術の技に反映されています。特に、「離れた場合」の技には、合気道に類似した動きや理合が見られます。これにより、講道館護身術は、柔道の投げ技・固め技に加え、合気道の関節技や体さばきを統合した、より幅広い護身体系となっています。
講道館護身術の制定委員会において、中心的に働いたのが富木謙治先生です。彼は柔道八段でありながら、合気道の創始者・植芝盛平先生から合気道八段を授与された、柔道と合気道に精通した武道家でした。
富木先生は、柔道に科学的なアプローチを取り入れ、柔道と合気道の共通点を追求しました。彼は柔道における「乱取り」の稽古法を重視し、柔道の形を単なる古式な型としてではなく、理にかなった現代的な護身術として体系化しようとしました。この考えが、講道館護身術の制定に大きく反映されています。
講道館護身術の制定に際し、富木謙治先生が協力を依頼した人物の一人が、大東流合気柔術練心館の前館長である前田武先生です。富木先生は、当時の大東流合気柔術の技術に着目し、その技法を護身術に取り入れることを目的として前田先生に協力を求めました。
これにより、講道館護身術には、大東流合気柔術の技法の一部が融合されていると考えられています。これは、講道館護身術が柔道の枠を超え、他の優れた武術の要素を積極的に取り入れた体系であることを示しています。
講道館護身術は、嘉納治五郎が学んだ古流柔術の一つである**天神真楊流柔術**の影響を強く受けています。特に、同流派の免許皆伝者であった制定委員の**酒本房太郎先生**の尽力により、柔道から一度削除された手首の関節技が、護身術として再採用されました。
これは、講道館柔道が古流柔術の優れた技術を現代に再評価し、護身術の体系に組み込んだことを示しており、柔道が時代に合わせて進化していることの証明とも言えます。
講道館護身術は、合計で21本の技で構成されています。
講道館護身術は、昭和27年(1952年)に設けられた「講道館護身法制定委員会」によって、4年の歳月をかけて作られました。委員は総勢25名おり、以下のような柔道界を代表する人物らが尽力しました。
講道館四天王の一人。柔道創始期から嘉納治五郎を支えた高弟で、柔道技術の発展に大きく貢献しました。
「空気投げ」で知られる柔道十段。嘉納師範没後の講道館を支え、「柔道の神様」とも称されました。
柔道家でありながら、古流柔術や天神真楊流柔術にも精通していました。
富木謙治先生と共に、この形の制定に尽力した人物です。
講道館の指導員として、多くの柔道家を育成しました。
柔道普及に尽力し、特に柔道形指導の第一人者として知られます。
当時の講道館における有力な指導者の一人です。
柔道指導者として、また柔道史の研究家としても知られます。
柔道の形や理合いの探求に熱心だった人物です。
柔道を通じて教育に尽力した人物です。
講道館八段。柔道教育の普及に貢献しました。
天神真楊流柔術の免許皆伝者であり、護身術に手首の関節技を再採用する上で重要な役割を果たしました。
合気道と柔道双方で高段位を持ち、合理的な理論に基づいた指導法を確立した人物です。護身術の作成に中心的に携わり、大東流の技も取り入れようとしました。
練習では、まず身体の捌きを重視します。いつでも相手の動きに順応できるよう、自然な体勢を保ち、相手との間合い(距離)と角度を正しく取ることが重要です。自分の体勢を崩さずに技の理に合わせた動作を身につけ、慣れてきたら徐々に速度や鋭さを加えていきます。
これにより、組み合った状態だけでなく、離れた位置からの攻防も考えられるようになり、柔道の技術を護身として応用する力が養われます。